《私のやりたい100のこと》
51.築40年の家のDIY状況をvlogにする
非公開にした25万回再生した家と暮らしsachiチャンネル”初投稿動画”を再投稿したワケ
こんにちは サチです。
築40年の家 の動画を YouTube に投稿してから、4年 が経過しました。
現在、317本の動画 をアップしていますが、
投稿したものの、その後、非公開にした動画が2本 あります。
それは・・・
■家と暮らしsachi Youtubeチャンネルのはじまり
私は ハードYouTubeウォッチャー でしたが、私自身が動画を作る側になるとは、これっぽっちも考えていませんでした。
それが、動画を配信することになったのは
《私のやりたい100のこと》
51.築40年の家のDIY状況をvlogにする
築40年の家の片付け動画をYouTubeにアップしてみたらこうなりました
こちらに記載してあります。
これは、2021年6月18日に書いたブログですが
当時の 動画を7本投稿した時の 登録者数 が 記載されています!!!
このころは、リノベの家の片付け と、動画作成アップ と
とにかくがむしゃらで、また、がむしゃらでいられる時でもありました。
■非公開にした動画とは!?
家と暮らしsachi の YouTubeチャンネルは、2021年5月 に 初投稿をしました。

それから 4年 が経過して、317本の動画 をアップしてきましたが、その中で 非公開にした動画が2本 あります。
1番最初にアップした
築40年の家【#starter】財産相続の裁判の結果、2年ぶりに返ってきた私の家 破壊とゴミの家だった!!!
と
2番目にアップした
築40年の家 母が最期に帰りたかった家は 破壊とゴミの家 土足のままでゴミ捨てします!!!
です。
2ヶ月後、視聴回数をみたところ
【#starter】財産相続の裁判の結果 が、258,752回再生
母が最期に帰りたかった家は 破壊とゴミの家 は、88,900回再生
それを 非公開 にした理由は・・・
■リノベの家 が 始まった日
一番最初の投稿は
築40年の家【#starter】財産相続の裁判の結果、2年ぶりに返ってきた私の家 破壊とゴミの家だった!!!
この動画は、母の入院中から実家に籠城した弟が、私が家に入るコトを拒んだどころか、母を見捨てる手紙を母へ書き、そのまま母は家へ帰ることが出来ず、ホスピスで亡くなりました。
その後も弟は家を出ていくコトをしなかったので、強制退去の裁判を起こし、突然「家を明け渡す」と連絡があり、私の弁護士と一緒に、2年ぶりに実家である “リノベの家” へ入った時の、記録 として撮った動画です。
弟は大学卒業後、就職をすることなく実家に寄生し、無職のままでした。
なぜ無職なのか、それにも、ビックリするような理由がありまして・・・
これについては、またお話できる機会がありましたらお知らせいたしますが、とにかく驚く内容です・・・
リノベの家 は、母が体調を壊し、入退院を繰り返しているときから、海外に住む姉より「売り払え」と言われ(母がいなくなったら、姉が欲しいのは日本にある不動産ではなく預貯金です)姉の言葉に「もう、どうにかして欲しい」と言って私に助けを求めてきた母。
母は、嫁に出た私に対しては、ある一線を引いていたところがあります。私には嫁入り先の実家があるからです。
ですが、母が大事にしている家を売れ、と言う姉と、生前から母の財産が欲しくて警察沙汰を起こす弟に、母の体力も気力も、もう耐えられなかったのだと思います。
「あとのことは、サチに全部やって欲しい。お父さんと守ってきたこの家を守って欲しい」
そう言われたリノベの家が、母が亡くなって2年後、やっと私の手元に返って来たと思ったら、この状態・・・
動画の中で、私はとても明るく振舞っています。
一緒に同行した私の弁護士は、おそらく相手側の弁護士から聞いていたのとはかけ離れたリノベの家の状況に、明らかに憤慨していました。
動画の中でも、怒りをあらわにしようとした私の弁護士の言葉を、私は2度ほど遮っています。
普段はとても穏やかな私の弁護士の、明らかな強い怒り を感じたので、それをそのまま出させてはいけない・・・そんな気持ちになったからです。
いま思えば、弁護士の言葉を遮ってはいけなかったと反省しかありませんが、弁護士さんには、弁護士としての仕事をしていただくだけで、私のために不愉快になってほしくなかったのです。
リノベの家は、この日から始まっています。
”リノベの家の動画” を作るにあたり、この日の、この状況なくしては、リノベの家の動画はあり得ない 、そう思って記録のための動画を編集し、投稿することにしました。
■翌日から即片付け
二番目に投稿したのは
築40年の家 母が最期に帰りたかった家は 破壊とゴミの家 土足のままでゴミ捨てします!!!
2年ぶりに “リノベの家” に入った翌日から、都内にある自宅から高速を車で走って約2時間のリノベの家まで、さっそく片付けのために1人でやってきました。
弟がこの家を出て、どこにいるのかは知りませんが、私が片付けに来ることは分かっているはず。
警察沙汰を何度も起こしているので、住所を言えば、警察はすぐに飛んできてくれるはずですが、その間に私は傷つけられる・・・
それでも片付けるためにやって来たのは、動画を見ていただければ分かりますが、冷蔵庫の中はそのままで悪臭を放ち
「それはお母さんのモノだそうです」
と平然という弟の弁護士。
弟の弁護士に良心があったのなら、きっと彼自身も、この言葉を吐きながら傷ついたと思います。
それくらい悪臭を放って酷かった。
この時は、まだ3月ですが、日に日に季節が変わっていく頃。
この悪臭がこれ以上ひどくなる前に、どうにかしないと。
それに、ガレージに引っ張り出されたままの布団。
とても治安の良い地域ではありますが、不用心だし、ご近所様にも申し訳がありません。
さらに、キッチンの照明が壊されていたり、冷蔵庫のコードが引っ張り出されていたり、2階のコンセントが破壊されていたり、、、
そんな状態なので、ブレーカーは切ったまま。
うっかり通電させて、どこかがショートでもして発火などしたら、それこそご近所様に多大なご迷惑がかかる。
まずは、ニオイの元になるモノや、ガレージなどの外に放置してあるものの始末と、全てのコンセントの状態を確認するまでは、電気を通電することは出来ない。
朝早くから、夕方暗くなる前までの時間帯で、出来るだけのコトをしないと。
また、いつ弟が私を襲いに来るかもしれない恐怖と、もしも弟が来たのなら、少しでも証拠を残しておこうと、部屋の上部にカメラを仕掛けて、部屋の片付けが始まりました。
■動画を非公開にしたワケ
娘に勧められて始めた YouTubeへの投稿は、不慣れな毎日の片付けと、動画作成と、大変な毎日でしたが、母との約束 を守るための記録として、いつかきっと「こんなだったね」と笑える日が来る、と思っていたものの、やってもやってもどうにもならない・・・
たった1人で、この家をどう出来るのか。
なぜ、善良な母が、姉や弟からこんな仕打ちを受けなければならないのかと、考え込んでしまうことも多くなり、いろいろなコトに悩み始めてしまいました。
私は、母の介護のために、勤めていた会社を退職しました。
“母のため” の退職のはずが、義父の病気が発覚し、母のところへ来るコトが出来なくなり、義父のお世話 をすることになりました。
義父には、私以外にも、私の主人である太ゴ、その次男の義理弟、義理弟の嫁である義理弟嫁がいますが、義理実家では “嫁” は “タダで働く都合の良い家政婦”
義父は、義理弟夫婦には甘く、太ゴも、当初は私をかばうようなコトは一切しませんでした。
義父が亡くなって、やっと実家へやって来た翌日の朝に父が倒れて入院し、そのまま自宅へ帰ることなく亡くなり、翌年には母の体調が悪くなって都内から母の病院まで毎日車で通うことになり、転院したホスピスは、都内の自宅から通える距離では無かったので、こうなったら、ホスピスの前のマンションを契約するか、と覚悟を決めたところで、母の部屋に泊まり込む許可をいただく事が出来て、それから母が亡くなるまで、それほど長い期間ではありませんでしたが、朝から晩まで、母と一緒。
それはとても穏やかでもありましたが、とても辛くて、切ない時間でもありました。
私は “幸せになる” ために結婚しましたが、いざしてみたら、いつも1人。
結婚前とは打って変った冷待遇な太ゴ。
「嫁は三つ指ついて挨拶しろ」それを強いられるのは便利に使われる長男の嫁の私だけ。
無条件に信頼できる両親を失い、子ども達は大事だからこそ頼ることも、私の苦しみを吐き出すことも出来ず、天涯孤独 とは、こんな気分なのかと思う日々。
私が母のために退職をしてから、義父を看取り、立て続けに両親を亡くし、その後も義母の通院などの世話をすることになり、すっかり再就職の機会を逃してしまったので、YouTubeの再生回数の多い2本の動画を非公開にするのは、微々たる収益がさらに減ってしまうと思いましたが、どうにも、辛くて非公開にすることとなりました。
■じぶんらしく生きなさい
私は義理両親から “大事にされた記憶” は一切ありません。
義父は、まったく自分勝手な人でした。
偉そうなことを散々言っておきながら、残した物は、負の財産だけ。
さらに、太ゴや私の居場所を無くす結果になりうる状況を作って亡くなっていきました。
義母も同様。
“母親の責任” としてやるべき事はあったはずなのに、信じてはいけない人に騙されて、事実を知ろうともしないで人を傷つけ、何もしないまま亡くなりました。
私の母は、世界で一番私の事を守ってくれる存在でした。
そんな母が、なぜ義父や義母よりも苦しんで亡くならなければいけないのか!?
それは、母が “じぶんを我慢しすぎたから” というのが私の答え。
自分勝手な義理両親が正しい、とかではないんです。
とても難しいニュアンスなのですが、母はじぶんを我慢しすぎて、誤解を恐れずに言うならば
じぶんを粗末にしていた
になるのではないか!?
良い嫁であれ
亭主のため
家族のため
子どものため
親の言うコトを聞け
これが義理両親や太ゴが私に言った言葉
私自身の存在など、どうでもいいんです。
嫁は都合のいい、無料で働く家政婦だから。
いまでこそ『じぶんらしく』とか『じぶんを大事にする』などと言われるようになりましたが
私が「私らしく」と言ったものなら
「それは我がままじゃないのか」
「家族はどうするんだ」
「子どもは大事じゃないのか」
「じぶんの事ばかり言って」
「親の言うコトをなぜ聞かない!!!」
などと、義理両親はもとより、太ゴからも即言われました。
このままでは、私は義理実家に便利に使われるだけ使われて、ボロ雑巾のようになってしまう。
それは分かってはいたけれど、行く場所もないし、そのお金も私にいはない。
でも、母が私に身をもって見せたのは
じぶんらしく生きなさい
ということだと思いました。
根無し草のようで、どこにも居場所がないと思っていた私に、母はリノベの家を残してくれました。
■義母様の呪い
60歳を目前にして、義母は私に 呪い をかけました。
「60歳になった途端にいろいろな病気が出て来た。なんで私がこんな思いをしなければならないのかっ!!!」
これは “呪い“ などではなく、義母自身の状態をそのまま口に出しだけのことなのでしょうが、私には “呪い“ としか思えず、いつしかその “60歳” を迎えることが、恐怖 になっていました。
私の祖母は、私に 魔法 をかけました。
父から聞いた言葉ですが
「おばあちゃんがサチのことを『この子はお金に困らない子だね』と言っていたよ」
私が子どもの頃に聞いた言葉です。
おばあちゃんの家へ遊びに行くと、たいていは庭いじりをしているので、私はおばあちゃんに付いて回って草をむしったり、庭で焚火をしたりしましたが、一緒に住んでいたわけではないので、そんなに私のことを知っているはずのないのに、なぜこのようなコトを言うのか不思議でしたが、その言葉はずっと私の中にあって「もうどうにもならない!!!」というような状況になっても、大金こそ得る事はありませんが、なんだかんだと乗り越えてこられたのは、この おばあちゃんの魔法 のお陰だと思っています。
そして、義母の呪い は、呪い ではなく、いま私が大きく変わるための後押しの言葉 だったのかもしれないね。
そんなふうに思い始めています。
■手放し
家と暮らしsachi のサブタイトルは
じぶんらしい暮らし
じぶんらしい生き方
なのに、まったく じぶんらしくいられない・・・
このままでは、母との約束である、リノベの家の完成もままならないのではないか!?
そんな不安すらよぎるほど。
2025年は巳年。
私の年です。
この年末に義母の呪いの60歳になる年。
龍は空想の世界の生き物ですが、蛇は現実の生き物であり、脱皮を繰り返して成長してく生き物。
だったら、いまこそ巳年である私は、大きく脱皮しよう。
60歳を、胸をはって迎えられるように。
しっかりとなりたいじぶんになれるように。
いま苦しいと思うのは、きっと脱皮をするための準備だから。
そのためにも、モノの片付け、思考の片付け をさらに加速させよう。
せっせと 手放し をして身軽になろう。
そのためにも、この2つの動画を、再投稿することにしました。
■えつ子さんの話
私は1993年にイギリスへ行きました。
大事な人が突然亡くなって、その人のいない東京にはいたくなかったので、逃げるようにイギリスへ向かいました。
そこで出会ったのが、エツ子さん。
“カオルと僕とそして今” のお話を読んでくださった方はご存知な名前だと思いますが、イギリスに住むヒーラーです。
その時,
私を心配してくれた友人がエツ子さんへ電話をしてくれたところ、その時はヒーラーのお仕事をされていないにも関わらず「お会いしたほうが良いと思います」と、会ってくださった方です。
彼女が私にしてくれたのは “カオル” がされたことと同じ。
そのエツ子さんは、お話の中でも書きましたが、物心ついた時から、髪の毛をむしるクセがあったそうです。
ふと気が付くと、テーブルの上が髪の毛でいっぱいになるくらい、無意識のうちに手でクルクルと髪を絡ませて、プチプチと抜いてしまうのだそうです。
そこで、ある方から紹介していただいたヒーラーに見てもらったところ、過去のじぶん が、頭に酷い損傷を受けて亡くなっていると・・・
そして、その様子を、私が見たのと同じ方法で、全部見せられたそうです。
それはかなり恐ろしい体験だったと思いますが(お話の中で書いてます!!!)ところが、そうであったことを見せられた後、髪の毛をむしるクセがすっかりおさまったそうです。
過去のじぶんの死にざまを知った途端に、今のクセが治った・・・ということ。
・・・別な言い方をすると・・・
算数が苦手な子がいます。
その子に算数がもっと出来るように勉強をしろ、と言ったところで、勉強しないはずです。
そこで「算数の何が苦手か?」と聞くと「全部」と答えるはず。
算数の何が出来なくて、何が苦手なのかが分からないので、勉強のしようがないし、出来ない所を改善するすべがないのです。
ところが “九九が出来ない” と分かれば、九九を練習すれば、苦手を克服して算数が出来るようになるわけです。
原因が分かると、問題は解決しやすい。
むしろ
原因が分からないままだと、問題は解決しない。
そして
その “問題解決” は、意外とシンプルで、複雑ではない、のかと・・・
■もう一度じぶんの再構築のために
どんなに辛いコトであっても、私に起こったコト。
それを、臭いモノにフタをするようにしても、なんら解決せずに残り続ける。
それは必ず必要があって起こっているはずだから
私がいつも言っている言葉
なぜ!?
じゃあどうする!?
たとえ答えが出なくても、ちゃんと向き合って、それについて深く考えてみる。
そうすると、意外な方向から見えてくるものがあったりするから。
私の場合、この30年間は辛いコトばかりで、じぶんらしくいられずに何度もじぶんをあきらめようと思ってきましたが、じぶんと向き合う よりも、向き合わざる負えなかった・・・
感じだったと思います。
でもそこで、得た解決方法は、30年間分の蓄積があります!!!
いまこそ、もう一度 じぶんの再構築 を。
「生きるって難しい、とても辛い」が口癖だった私が
「今のじぶんが一番好き」と言えるようになったのは、長い時間をかけて、じぶんであることをあきらめなかったからです。
ところが、60歳目前で、どうやら目の前が再びくぐもって見えるようなコトが多くなりました。
相変わらず問題は山積していて、それも、私自身の問題ではなく、かといって、無視するワケにもいかない厄介な状況。
いったいいつになったら、私はなりたいじぶんになれるのだろう!?
どうやら、急ぎで じぶんの再構築 が必要なようです・・・
■30年分のワークを最短でトレース
私のワークは30年分なので、データはたっぷりあります。
でも、それをトレースしなおすと、また30年かかってしまう・・・
今回は、それらを最短で出来る方法でやっていきます。
まずは
私にとって、大きな2つの動画の思い出を手放します。
この動画を手放すことにしたこの “5月” は
YouTube を始めた月 であり
母の七回忌の命日の月 であり
母の誕生日の月 でもあります。
その5月に、動画の再投稿へこぎつけたのも
いまやりなさい
という 母からのお知らせ かもしれません。
同じような思いで立ち止まっている方へ
大丈夫、一緒に進もう!!!
私のワークがどのようなものか、どこかでお伝えできたら嬉しいです。
じぶんの再構築 始めます
最後までお読みいただきまして
ありがとうございました
👋サチ👋